大根荘の思い出

  • 大根荘での生活

    2月(1999年 H11年)に上京した折、30年ぶりに学生時代に住んだ街を訪ねてみた。アパートが現存するとは思っていなかったが、その跡地がどこなのかもわからぬほど変わっていたので驚いた。田んぼがあった所は、整然と住宅が建ち並び、キャッチボールをやった空き地にも家が列をなしていた。僅かに見覚えがあるのは、駅の横を流れる川だけだった。それも護岸工事が施され、水面は足元よりもさらに下にあった。

    山の絵です。

    昭和45年の春、「よど号事件」のさなか、私は北海道釧路から神奈川県秦野市南矢名の「大根荘」に移り住んだ。釧路にいた時は、旺文社の「蛍雪時代」を見て、進む大学は東京都渋谷区富ケ谷にあって、学舎では学生達が芝生に輪になって座り、ギターを持った男を女の子が取り囲んでいる・・・・・と思っていた。しかし、上京するとき同行してくれた大学の先輩でもある従兄弟は、渋谷には行かず、新宿から小田急線の切符を買った。その行き先は「大根」であった。練馬大根は聞いたことがある。文系の学部は、練馬にあるのかもしれない。しかし、電車が進むうちに車窓の風景は、心細いものに変わっていった。多摩川を越えると、田んぼが続き、建造物は時々現れる工場が目に入るくらいだった。やがて、右手に山が見えるようになった頃、「大根」に着いた。

    駅から外に出ると、50メートルくらい続く道路の左右に、八百屋、魚屋、雑貨店、食堂が並んでいて、その先は、田んぼとアパートが点在するだけだった。「大根荘」は10分ほど歩いた所にあったが、建物のうしろは高台になっており、道はそこから長い階段になっていた。アパートは2階建で、36部屋がある横に長い建物だった。あとからわかったことだが、辺りには狸が出没した。それほど長閑な所であった。アパートからは丹沢の山々が見渡せた。

    ノートの絵です。 大学は、歩いて5分ほどの所だった。「蛍雪時代」に渋谷区富ケ谷とあったのは、本部の住所であって、自分が通う校舎は神奈川県平塚市の湘南校舎だった。そこは「太陽の季節」とは別の湘南だった。芝生に集うはずだった女の子の姿もなく、芝生そのものが「芝生コンクール」のために立入禁止だった。上京前に描いたイメージは、ことごとく打ち砕かれた。実際は、東京を素通りして神奈川の丹沢近くに来たのだから、「上京」ではなかったわけだし・・・・・。

    大根荘での生活は、アパートというよりも寮のようなものだった。36部屋の全てが同じ大学に通う者であったから、元々プライバシーなど存在するはずもなく、それが苦になる者は早々に転居した。でも、大方の学生はそこに居着いた。24時間、どこかここかの部屋から雀卓を囲む音が絶えたことがなかった。そんな環境だから、大家さんも入居は男に限っていた。

    コーラの空き瓶の絵です。 生活の中心は、何を食べるかということだった。当時の仕送りは2万5千円が標準で、3万という者は余裕があった。朝はぎりぎりまで寝ているから、学校での食事が朝・昼兼用だった。学食では、唯一、スペシャルランチだけが200円という高額で、あとは100円前後で食べられた。天ぷらそばにライス、それにチェリオ(清涼飲料水)で150円という出費だった。問題は夕食で、仕送り直後は食堂で食べたが、金がなくなると、バイト先の肉や野菜をくすねてくる先輩が頼りであったり、10円で山ほど買えたモヤシを油炒めにして、それだけをおかずにして食べた。それも尽きると、夜になると馴染みの食料品店の裏に積まれたコーラーの空瓶をアパートに運んだ。翌日、それを同じ店に持っていって金に換えた。当時は、コーラは50円くらいだったが、瓶を返すと10円を戻してくれた。50円は瓶保証料込みの価格だった。先輩からは、田畑のものには手を出すなと厳しく言われていた。作物を失敬してしまったら、それは返すことはできないからだ。店の物なら、アパートの住人全員がよく買い物をしているから・・・・・という気持ちがあったし、失敬する物は空き瓶であって、それも返すのだから・・・という自分への便利な言い訳もあった。

    女の子には無縁であった。会話を交わす女性と言うと、アパートの管理人のおばさんと、学食、食堂のおばさん だけだった。入学当初、教室には女の子が2人いたが、一人はすぐに姿を見せなくなり、もう一人は車を持っている学生と仲良くなって、我々には挨拶もしなくなった。あとは、若い女性というと学生課の職員だけだった。一度だけ授業料を払う窓口で「お名前は?」と問われて、「名乗るほどの者ではありません。」と答えて、大いに受けたことがあったが、それも一回きりしか使えないジョークだったので、当然ながら何の発展もなかった。`教室の後ろの席に座り、男ばかりの後ろ姿を見ている日々が続いた。高校時代を懐かしく思いだすこともあった。でも、大根荘に帰ると、そんなことも忘れて皆んなと戯れていた。何を語ったかを思い出すことはできない。ただ夜遅くまで語っていた。そして、眠くなると誰の部屋でも寝た。押入や机の下にも寝た。電話の絵です。 ホームシックになると公衆電話から「105番」に電話をかけて、釧路の自宅の電話番号を聞いた。この電話が故郷につながっていると思うだけで嬉しかった。

    やがて、70年安保反対の動きが学内に広まってきた。機動隊が導入され、静かだった田舎の大学も騒然となった。大根荘には運動の先頭に立つような闘士はいなかった。ただ、学校にも近く、常に住人の友人が数多く出入りしていた大根荘は、隠れ家には適していたようで、公安にマークされた人達もそれに紛れるように何回か我々と寝食をともにした。大家さんは警察から度々、苦言をいただいていたようで、ある日、大根荘を電機メーカーの社員寮として売り渡すという宣言をした。入居者は突然の言い渡しに反発したが、転居の条件として示された破格の「払戻金」にすぐ納得してしまった。それは、都内に部屋を借りて、テレビや冷蔵庫を揃えてもまだお釣りが来る金額だった。結局、大根荘解散にあたって一堂に会することもなく、皆んな各々がきめた新しい住居に引っ越していった。

    ラジオの絵です。 今も夏になると、大根荘の窓から眺めた夜の田圃風景を思い出す。丹沢の山の上にある月が水面を照らし、無数の蛙の鳴声が響いた。それは、自分が育った釧路にはない光景だった。涼しい所で育った自分にとって、神奈川での初めての夏の暑さは、想像以上に厳しく、深夜になっても凌げるものではなかった。眠れぬ夜は、開け放した窓の桟に置いたラジオで「オールナイトニッポン」を聴いていた。今、その情景から浮かんでくる音楽は、チャールズ・ブロンソンのCM「マンダム」の曲だ。

    今から思うと、大根荘最後の住人は団塊世代+2歳までの者だった。今、51歳~48歳の人達だ。皆んな元気だろうか。高速道路のレストランでバイトをして、我々後輩にもステーキを食べさせてくれたA先輩は何をしているのだろう。きっと、料理上手なお父さんとして子ども達を喜ばせたことだろう。「ウッチャン・ナンチャン」を見ると思い出すS先輩とH先輩のコンビは、今でも連絡を取り合っているのだろうか。S大学教授を父に持つKは、 今も車が好きだろうか。KのベレットGTに定員をオーバーする友人が乗り込んでドライブした城ヶ島のことを思い出す。泥濘にはまったスポーツカーを押してあげたことがあった。雨の中、ずぶぬれになって頑張ったが、助手席の女性は一度たりとも外に出てこなかった。重役の息子だったSは、希望どおり海外に赴任したのだろうか。通学可能な所に家がありながら、大根荘に住みたいと言い出した不思議な奴だった。心配した母親がよくようすを見に来ていた。今は、その親御さんを安心させることができているのだろうか。

    30年ぶりに大根荘を訪ねたが、帰りにはロマンスカーに乗った。行くときは混み合う電車であったから、帰りはゆっくりと車窓の風景を楽しもうと思った。でも、新宿に向かうにつれ、見えるのは線路際まで並ぶ住宅だけになった。30年前、田んぼと工場しかなかった一帯が住宅街に変わっていた。多摩川の鉄橋を渡る時だけが、見覚えのある風景だった。大根駅も今は「東海大学前」と名前を変えていた。大根は「おおね」と読む。大根(だいこん)と関係がある地名なのかは知らない。(1999/12/20)

  • 24時間バイト(雑誌梱包/事務室清掃/宿直員)

    昭和45年の秋、神奈川県秦野市南矢名67にあった大根荘から引越をした。新しい部屋は世田谷区上北沢に借りた。ここに中学時代からの友人Kと一緒に住んだ。最寄りの駅は京王線八幡山(はちまんやま)。近所には、日本一古い精神科の病院(松沢病院)があった。明大ラグビー部のグランドもあった。あと、大宅壮一文庫もあった。大家の話では、宇津井健、姿美千子、上原ゆかりといった有名人も住んでいるということだった。実際、姿美千子は商店街で見た。上原ゆかりも八幡山駅のホームで見かけた。上北沢の街並みは、甲州街道沿いに車のディーラーや中古車販売店が目立った。でも、そのすぐ裏は住宅街になっていた。杉並区(上高井戸)との堺には畑もあった。当時は高い建物はなかったと思う。

    自分が上北沢で過ごしたのは半年に満たなかった。宿直員のバイトを始めたのだ。文京区湯島にある雑誌社で寝泊まりをすることになった。国鉄御茶ノ水駅から聖橋を渡った清水坂下にその雑誌社はあった。仕事の内容は、社員が出社する前の時間帯に電話と荷を受けるくらいだった。あとは寝ていればよかった。なんでこんなに楽なのかと思った。暫くして訳がわかった。この雑誌社では、社屋を労組に占拠されたことがあった。機動隊まで出動した事件だったという。だから、宿直員を外部の人間にする必要があった。会社はそれをビル管理会社に発注した。それで派遣されたのが自分だったのだ。訳を聞いたあとは少し怖くなった。でも、組合の人達(社員のほとんど)は優しかった。会合で取った店屋物を「夜食にして」と分けてくれた。それが何度もあった。結局、自分がいる間に事は何も起こらなかった。

    雑誌社は出版もしていたが、主な業務は取り次ぎだった。出版社から届いた雑誌(主に週刊誌)を書店ごとの束に梱包して発送するのだ。伝票を見ながら、冊数を揃えて紙で包み紐で括る。これは専用の機械がある。操作はむつかしいことはない。次に梱包したものをベルトコンベヤーに載せる。その先にいる者が、束を積み上げて一連の作業は完了する。あとは、トラックが来たら積み込むのだ。雑誌社は多忙で人手不足だった。毎日残業だった。宿直員の自分は、社員が退社するまでは仕事がない。ただ室で待機するだけだ。だから、自然に梱包の仕事を手伝うようになった。そうしたら作業分のバイト代を貰った。同じ時間帯の就労なのに二つの会社からバイト代をいただいた。一粒で二度美味しいグリコアーモンドだ。

    ある日、総務課に呼ばれた。清掃のおばちゃんが辞めたという。代わって事務室の清掃をしてくれとのことだった。床掃きと机上拭きだ。清掃のバイトは、経験済みなので要領は知っていた。それに自分は宿直員だから、時間を指定されることもない。翌朝までにきれいにしておけばいい。時間にして30分程度だ。それで¥700/日のバイトだという。銀座で食べる中華丼が¥200の時代だ。こんないいバイトはない。こうして三つのバイトをすることになった。

    18時に雑誌社に出勤。それから21時頃まで梱包作業。社員が退社したら事務室の清掃。あとは寝るだけ。辛いと思ったことはなかった。強いていえば夜の時間を拘束されたことぐらいだ。でも、相応以上のバイト代が入った。恵まれていた。その三つのバイトも朝8時には終わる。社員に引継後、国鉄御茶ノ水駅に向かう。その道は東大生の通学路だ。同じ道を歩く。ただ方向は逆。東大生と自分の関係そのままだ。中央線で新宿に出る。そこからは小田急線に乗る。経堂、登戸を過ぎる。町田、相模大野を過ぎる。海老名も過ぎて本厚木になる。ようやく自分が通う大学に近づく。大根(おおね)駅で下車。ここで10時近くになる。通学時間2時間強。途中には若者の街といわれた新宿もあった。この通学は長く続かなかった。

    元々、向学心あっての進学ではなかった。「釧路で受験できる大学がある。受けてみないか」。そう担任に言われた。自分の進路指導表は高3の秋になっても空欄だった。部活引退後は登校すらしなかった。今から思うと長閑な時代だった。「卒業試験と重なるけど、受験優先だから卒業試験は受けなくてよい」。それが決め手だった。1月に市内で受験した。試験問題に「はんせい」を漢字で記せというのがあった。前後の文章から考えると「反省」しかなかった。高校受験にもない問題だった。あと面接があった。学費の説明があった。「親の仕事は?」「学費支払いの用意はあるか?」聞かれたのはその2点だった。

    大学に通わなくなった後も8時に御茶ノ水から新宿に向かうのは変わらなかった。が、そこから先は新宿の映画館で過ごす。そういう日が多くなった。大学の籍はなくなった。暫くしてビル管理会社から電話があった。新しいバイトの話だ。ビルのボイラー室勤務。「暇な時だけでもやってくれたら助かるのだけど・・・」。暇はある。場所も近い。時給もよかった。こうして、ほぼ24時間バイトをすることになった。『♪ 24時間戦えますか』の先駆けだ(戦いはしなかったけど)。

    清水坂下の雑誌社で宿直のバイトを終える。その足で秋葉原(外神田)のビルに向かう。8時半から17時までボイラー室勤務だ。その内容は留守番みたいなものだ。有資格者のボイラーマンは、別の階で管理全般をしている。自分は、「暑い」「寒い」の声に応えるだけ。その時は、三つのスイッチを入り切りすればいい。でも、それもほとんどなかった。ただ、部屋にいればいい。テレビ、ラジオOK。読書もOK。友人と談笑してもOK。留守番以外には、週に1度の給油立会だけ。友人には、よく耐えられるなといわれた。でも、苦ではなかった。もし、自分に才能があったら、直木賞受賞の作品はこの時生まれた。なんてことになっていたかも。そのくらい自由になる時間があった。

    あの頃、何を考えていたのだろう。きっと、何も考えていなかったのだと思う。将来の計画はなかったが、不安もなかった。そんな日々だったと思う。思い出すのは、ビル管理会社の社長のことだ。その後、自分は社員になる。ひとかたならぬお世話になった。大手企業に勤めていた人だった。会社勤めの矛盾に耐えられず独立したと聞いた。それだけに思いやりがあった。でも、それに報いることができなかった。それが残念だ。あと、雑誌社の人々。怖かったリーダーのMさん。現場を仕切る大変さは後に知った。愛妻家で子煩悩のTさん。共働きの奥さんに「迎えにいくよ」コールをしていた。モデルのようにかっこよかったNさん。有名女優の甥っ子だった。三人とも既に定年を迎えている歳だ。Mさんは好きな酒を続ける悠々自適の日々だろう。Tさんは孫相手の毎日かな。Nさんは海外の生活かもしれない。そんな気がする。

    釧路にUターン後、何度も上京した。都度、秋葉原に足を運んだ。秋葉食堂にもいった。蔵前橋通りのPCショップも覗いた。でも、その先の清水坂下にはいってない。Google Earthを開いてみた。一帯の建物はすっかり変わった。御茶ノ水駅から清水坂下。次の上京時には歩いてみようと思う。(2007/8/30)

  • バイトから社員

    宿直員の日々は2年近く続いただろうか。ある日、バイト先の社長に呼ばれた。社員にならないかという話だった。仕事は清掃のパートとバイトの手配。営業もあるけど、仕事は向こうからやってくる。給料は7万4千円。車の免許を取得する費用も持つ。というような条件だった。バイトの手取りよりも半分になる。宿直員のバイトに不満はなかった。ただ、社長の話を聞いて一つだけ頭をよぎった。社員になると後楽園球場で巨人戦を見る時間ができる。これだけは、宿直員のバイトを続ける限りは叶わぬことだった。それで社員になった。昭和48年の正月明けだった。

    アパートは上高井戸に借りた。以前住んだ上北沢のすぐ近くだ。最寄り駅も同じ京王線八幡山。6畳1間に台所。当時としては、平均的なアパートだった。家賃は¥13,500。社員になって早速、自動車学校に通った。上北沢自動車教習所。ここの22号車の教官は厳しかった。スムーズにいかないと膝を叩かれた。これが、ピシッと痛かった。免許を取ったら、きっちり御挨拶に伺うぞ。そう心にきめた。そして、路上実技にパスした。一発合格。嬉しかった。そこに22号車の教官がいた。目が合った。「よかった。よかった」と握手を求められた。思わず、手を握りしめた。「ありがとうございました」の言葉まで出た。恨みよりも感謝。上北沢自動車教習所22号車の教官。今でもフルネームを覚えている。

    「仕事は向こうからやってくる」。これはホントだった。昭和48年の東京。そこはビルの建設ラッシュ。このあと、すぐオイルショックが来る。が、ビル建設が止まることはなかった。建設業者、設計事務所、ビルのオーナー。黙っていても仕事がきた。バイトの募集が追いつかない。社長も自分も現場に出た。例えば10階建てのビルの1フロアーを請け負う。そこの仕事に入る。すると、「こっちもお願いします」の声がかかる。見積なしの一式請求の仕事。それが月に5~6件あった。これは特別手当になった。仕事が終わった現場で、「美味しいものでも食べて」と渡された。その言葉に忠実に美味しいものを食べた。

    昭和48年4月。社員になって3カ月。昇給があった。7万4千円の給料が10万円になった。驚いた。会社の顧客も飛躍的に伸びていた。有名な企業のビルが現場に加わった。それにしても、この昇給は驚いた。翌年、給料は10万円から14万円になった。その時も驚いた。だが、どっちが驚いたかというと最初の年のほうだ。会社は外神田3丁目にあった。周りは電気街だ。早速、SONYのカセットデッキを買った。これが、オーディオのスタートだった。

    朝日無線、ミナミ無線の店舗も得意先だった。週1で顔を出すと社員とも親しくなった。社員食堂で出身地などの話をした。そのうち棚卸し整理品を分けてもらえた。そうやって揃えたのがコンポだ。DENON(デノンではない)の500、500Zのアンプとチューナー。プレーヤはマイクロソリッド5。スピーカーはAR。そして、ティアックのオープンデッキも買った。ただ、アパートでスピーカーを鳴らせたのは盆と正月に住人がいなくなった時だけだった。それでも、ヘッドホンで存分に愉しんでいた。エアチェックにも興じた。

    その年(昭和48年)、車を買った。カローラ ハイデラックスの新車。45万円だった。友人と日本海初見ドライブ、翌年の東京-釧路を車で往復、10月には長嶋引退、そして東京を引き揚げて釧路へのUターンと続くが、それらのことはまたの機会に書いてみる。(2007/9/8)