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宿直員の日々
昭和45年の秋、神奈川県秦野市南矢名にあった大根荘から引越をした。新しい部屋は世田谷区上北沢に借りた。ここに友人Kと一緒に住んだ。最寄りの駅は京王線八幡山(はちまんやま)。近所には、日本一古い精神科の病院(松沢病院)があった。明大ラグビー部のグランドもあった。あと、大宅壮一文庫もあった。大家の話では、宇津井健、姿美千子、上原ゆかりといった有名人も住んでいるということだった。実際、姿美千子は商店街で見た。上原ゆかりも八幡山駅のホームで見かけた。上北沢の街並みは、甲州街道沿いに車のディーラーや中古車販売店が目立った。でも、そのすぐ裏は住宅街になっていた。杉並区(上高井戸)との堺には畑もあった。当時は高い建物はなかったと思う。

自分が上北沢で過ごしたのは半年に満たなかった。宿直員のバイトを始めたのだ。文京区湯島にある雑誌社で寝泊まりをすることになった。国鉄御茶ノ水駅から聖橋を渡った清水坂下にその雑誌社はあった。仕事の内容は、社員が出社する前の時間帯に電話と荷を受けるくらいだった。あとは寝ていればよかった。なんでこんなに楽なのかと思った。暫くして訳がわかった。この雑誌社では、社屋を労組に占拠されたことがあった。機動隊まで出動した事件だったという。だから、宿直員を外部の人間にする必要があった。会社はそれをビル管理会社に発注した。それで派遣されたのが自分だったのだ。訳を聞いたあとは少し怖くなった。でも、組合の人達(社員のほとんど)は優しかった。会合で取った店屋物を「夜食にして」と分けてくれた。それが何度もあった。結局、自分がいる間に事は何も起こらなかった。

雑誌社は出版もしていたが、主な業務は取り次ぎだった。出版社から届いた雑誌(主に週刊誌)を書店ごとの束に梱包して発送するのだ。伝票を見ながら、冊数を揃えて紙で包み紐で括る。これは専用の機械がある。操作はむつかしいことはない。次に梱包したものをベルトコンベヤーに載せる。その先にいる者が、束を積み上げて一連の作業は完了する。あとは、トラックが来たら積み込むのだ。雑誌社は多忙で人手不足だった。毎日残業だった。宿直員の自分は、社員が退社するまでは仕事がない。ただ室で待機するだけだ。だから、自然に梱包の仕事を手伝うようになった。そうしたら作業分のバイト代を貰った。同じ時間帯の就労なのに二つの会社からバイト代をいただいた。一粒で二度美味しいグリコアーモンドだ。

ある日、総務課に呼ばれた。清掃のおばちゃんが辞めたという。代わって事務室の清掃をしてくれとのことだった。床掃きと机上拭きだ。清掃のバイトは、経験済みなので要領は知っていた。それに自分は宿直員だから、時間を指定されることもない。翌朝までにきれいにしておけばいい。時間にして30分程度だ。それで¥700/日のバイトだという。銀座で食べる中華丼が¥200の時代だ。こんないいバイトはない。こうして三つのバイトをすることになった。

18時に雑誌社に出勤。それから21時頃まで梱包作業。社員が退社したら事務室の清掃。あとは寝るだけ。辛いと思ったことはなかった。強いていえば夜の時間を拘束されたことぐらいだ。でも、相応以上のバイト代が入った。恵まれていた。その三つのバイトも朝8時には終わる。社員に引継後、国鉄御茶ノ水駅に向かう。その道は東大生の通学路だ。同じ道を歩く。ただ方向は逆。東大生と自分の関係そのままだ。中央線で新宿に出る。そこからは小田急線に乗る。経堂、登戸を過ぎる。町田、相模大野を過ぎる。海老名も過ぎて本厚木になる。ようやく自分が通う大学に近づく。大根(おおね)駅で下車。ここで10時近くになる。通学時間2時間強。途中には若者の街といわれた新宿もあった。この通学は長く続かなかった。

元々、向学心あっての進学ではなかった。「釧路で受験できる大学がある。受けてみないか」。そう担任に言われた。自分の進路指導表は高3の秋になっても空欄だった。部活引退後は登校すらしなかった。今から思うと長閑な時代だった。「卒業試験と重なるけど、受験優先だから卒業試験は受けなくてよい」。それが決め手だった。1月に市内で受験した。試験問題に「はんせい」を漢字で記せというのがあった。前後の文章から考えると「反省」しかなかった。高校受験にもない問題だった。あと面接があった。学費の説明があった。「親の仕事は?」「学費支払いの用意はあるか?」聞かれたのはその2点だった。

大学に通わなくなった後も8時に御茶ノ水から新宿に向かうのは変わらなかった。が、そこから先は新宿の映画館で過ごす。そういう日が多くなった。大学の籍はなくなった。暫くしてビル管理会社から電話があった。新しいバイトの話だ。ビルのボイラー室勤務。「暇な時だけでもやってくれたら助かるのだけど・・・」。暇はある。場所も近い。時給もよかった。こうして、ほぼ24時間バイトをすることになった。『♪ 24時間戦えますか』の先駆けだ(戦いはしなかったけど)。

清水坂下の雑誌社で宿直のバイトを終える。その足で秋葉原(外神田)のビルに向かう。8時半から17時までボイラー室勤務だ。その内容は留守番みたいなものだ。有資格者のボイラーマンは、別の階で管理全般をしている。自分は、「暑い」「寒い」の声に応えるだけ。その時は、三つのスイッチを入り切りすればいい。でも、それもほとんどなかった。ただ、部屋にいればいい。テレビ、ラジオOK。読書もOK。友人と談笑してもOK。留守番以外には、週に1度の給油立会だけ。友人には、よく耐えられるなといわれた。でも、苦ではなかった。もし、自分に才能があったら、直木賞受賞の作品はこの時生まれた。なんてことになっていたかも。そのくらい自由になる時間があった。

あの頃、何を考えていたのだろう。きっと、何も考えていなかったのだと思う。将来の計画はなかったが、不安もなかった。そんな日々だったと思う。思い出すのは、ビル管理会社の社長のことだ。その後、自分は社員になる。ひとかたならぬお世話になった。大手企業に勤めていた人だった。会社勤めの矛盾に耐えられず独立したと聞いた。それだけに思いやりがあった。でも、それに報いることができなかった。それが残念だ。あと、雑誌社の人々。怖かったリーダーのMさん。現場を仕切る大変さは後に知った。愛妻家で子煩悩のTさん。共働きの奥さんに「迎えにいくよ」コールをしていた。モデルのようにかっこよかったNさん。有名女優の甥っ子だった。三人とも既に定年を迎えている歳だ。Mさんは好きな酒を続ける悠々自適の日々だろう。Tさんは孫相手の毎日かな。Nさんは海外の生活かもしれない。そんな気がする。

釧路にUターン後、何度も上京した。都度、秋葉原に足を運んだ。秋葉食堂にもいった。蔵前橋通りのPCショップも覗いた。でも、その先の清水坂下にはいってない。Google Earthを開いてみた。一帯の建物はすっかり変わった。御茶ノ水駅から清水坂下。次の上京時には歩いてみようと思う。(07/8/30)

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