心太と書いてところてんWeb HOMEに戻る

社員O
宿直員の日々は2年近く続いただろうか。ある日、バイト先の社長に呼ばれた。社員にならないかという話だった。仕事は清掃のパートとバイトの手配。営業もあるけど、仕事は向こうからやってくる。給料は7万4千円。車の免許を取得する費用も持つ。というような条件だった。バイトの手取りよりも半分になる。宿直員のバイトに不満はなかった。ただ、社長の話を聞いて一つだけ頭をよぎった。社員になると後楽園球場で巨人戦を見る時間ができる。これだけは、宿直員のバイトを続ける限りは叶わぬことだった。それで社員になった。昭和48年の正月明けだった。

アパートは上高井戸に借りた。以前住んだ上北沢のすぐ近くだ。最寄り駅も同じ京王線八幡山。6畳1間に台所。当時としては、平均的なアパートだった。家賃は¥13,500。社員になって早速、自動車学校に通った。上北沢自動車教習所。ここの22号車の教官は厳しかった。スムーズにいかないと膝を叩かれた。これが、ピシッと痛かった。免許を取ったら、きっちり御挨拶に伺うぞ。そう心にきめた。そして、路上実技にパスした。一発合格。嬉しかった。そこに22号車の教官がいた。目が合った。「よかった。よかった」と握手を求められた。思わず、手を握りしめた。「ありがとうございました」の言葉まで出た。恨みよりも感謝。上北沢自動車教習所22号車の教官。今でもフルネームを覚えている。

「仕事は向こうからやってくる」。これはホントだった。昭和48年の東京。そこはビルの建設ラッシュ。このあと、すぐオイルショックが来る。が、ビル建設が止まることはなかった。建設業者、設計事務所、ビルのオーナー。黙っていても仕事がきた。バイトの募集が追いつかない。社長も自分も現場に出た。例えば10階建てのビルの1フロアーを請け負う。そこの仕事に入る。すると、「こっちもお願いします」の声がかかる。見積なしの一式請求の仕事。それが月に5〜6件あった。これは特別手当になった。仕事が終わった現場で、「美味しいものでも食べて」と渡された。その言葉に忠実に美味しいものを食べた。

昭和48年4月。社員になって3カ月。昇給があった。7万4千円の給料が10万円になった。驚いた。会社の顧客も飛躍的に伸びていた。有名な企業のビルが現場に加わった。それにしても、この昇給は驚いた。翌年、給料は10万円から14万円になった。その時も驚いた。だが、どっちが驚いたかというと最初の年のほうだ。会社は外神田3丁目にあった。周りは電気街だ。早速、SONYのカセットデッキを買った。これが、オーディオのスタートだった。

朝日無線、ミナミ無線の店舗も得意先だった。週1で顔を出すと社員とも親しくなった。社員食堂で出身地などの話をした。そのうち棚卸し整理品を分けてもらえた。そうやって揃えたのがコンポだ。DENON(デノンではない)の500、500Zのアンプとチューナー。プレーヤはマイクロソリッド5。スピーカーはAR。そして、ティアックのオープンデッキも買った。ただ、アパートでスピーカーを鳴らせたのは盆と正月に住人がいなくなった時だけだった。それでも、ヘッドホンで存分に愉しんでいた。エアチェックにも興じた。

その年(昭和48年)、車を買った。カローラ ハイデラックスの新車。45万円だった。友人と日本海初見ドライブ、翌年の東京-釧路を車で往復、10月には長嶋引退、そして東京を引き揚げて釧路へのUターンと続くが、それらのことはまたの機会に書いてみる。(07/9/8)

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