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大根荘の思い出

(神奈川県秦野市南矢名67)


2月(1999年 H11年)に上京した折、30年ぶりに学生時代に住んだ街を訪ねてみた。
アパートが現存するとは思っていなかったが、その跡地がどこなのかもわからぬほど変わっていたので驚いた。田んぼがあった所は、整然と住宅が建ち並び、キャッチボールをやった空き地にも家が列をなしていた。僅かに見覚えがあるのは、駅の横を流れる川だけだった。それも護岸工事が施され、水面は足元よりもさらに下にあった。

山の絵です。 昭和45年の春、「よど号事件」のさなか、私は北海道釧路から神奈川県秦野市南矢名の「大根荘」に移り住んだ。釧路にいた時は、旺文社の「蛍雪時代」を見て、進む大学は東京都渋谷区富ケ谷にあって、学舎では学生達が芝生に輪になって座り、ギターを持った男を女の子が取り囲んでいる・・・・・と思っていた。しかし、上京するとき同行してくれた大学の先輩でもある従兄弟は、渋谷には行かず、新宿から小田急線の切符を買った。その行き先は「大根」であった。練馬大根は聞いたことがある。文系の学部は、練馬にあるのかもしれない。しかし、電車が進むうちに車窓の風景は、心細いものに変わっていった。多摩川を越えると、田んぼが続き、建造物は時々現れる工場が目に入るくらいだった。やがて、右手に山が見えるようになった頃、「大根」に着いた。

駅から外に出ると、50メートルくらい続く道路の左右に、八百屋、魚屋、雑貨店、食堂が並んでいて、その先は、田んぼとアパートが点在するだけだった。「大根荘」は10分ほど歩いた所にあったが、建物のうしろは高台になっており、道はそこから長い階段になっていた。アパートは2階建で、36部屋がある横に長い建物だった。あとからわかったことだが、辺りには狸が出没した。それほど長閑な所であった。アパートからは丹沢の山々が見渡せた。

ノートの絵です。 大学は、歩いて5分ほどの所だった。「蛍雪時代」に渋谷区富ケ谷とあったのは、本部の住所であって、自分が通う校舎は神奈川県平塚市の湘南校舎だった。そこは「太陽の季節」とは別の湘南だった。芝生に集うはずだった女の子の姿もなく、芝生そのものが「芝生コンクール」のために立入禁止だった。上京前に描いたイメージは、ことごとく打ち砕かれた。実際は、東京を素通りして神奈川の丹沢近くに来たのだから、「上京」ではなかったわけだし・・・・・。

大根荘での生活は、アパートというよりも寮のようなものだった。36部屋の全てが同じ大学に通う者であったから、元々プライバシーなど存在するはずもなく、それが苦になる者は早々に転居した。でも、大方の学生はそこに居着いた。24時間、どこかここかの部屋から雀卓を囲む音が絶えたことがなかった。そんな環境だから、大家さんも入居は男に限っていた。

コーラの空き瓶の絵です。 生活の中心は、何を食べるかということだった。当時の仕送りは2万5千円が標準で、3万という者は余裕があった。朝はぎりぎりまで寝ているから、学校での食事が朝・昼兼用だった。学食では、唯一、スペシャルランチだけが200円という高額で、あとは100円前後で食べられた。天ぷらそばにライス、それにチェリオ(清涼飲料水)で150円という出費だった。問題は夕食で、仕送り直後は食堂で食べたが、金がなくなると、バイト先の肉や野菜をくすねてくる先輩が頼りであったり、10円で山ほど買えたモヤシを油炒めにして、それだけをおかずにして食べた。それも尽きると、夜になると馴染みの食料品店の裏に積まれたコーラーの空瓶をアパートに運んだ。翌日、それを同じ店に持っていって金に換えた。当時は、コーラは50円くらいだったが、瓶を返すと10円を戻してくれた。50円は瓶保証料込みの価格だった。先輩からは、田畑のものには手を出すなと厳しく言われていた。作物を失敬してしまったら、それは返すことはできないからだ。店の物なら、アパートの住人全員がよく買い物をしているから・・・・・という気持ちがあったし、失敬する物は空き瓶であって、それも返すのだから・・・という自分への便利な言い訳もあった。

女の子には無縁であった。会話を交わす女性と言うと、アパートの管理人のおばさんと、学食、食堂のおばさん だけだった。入学当初、教室には女の子が2人いたが、一人はすぐに姿を見せなくなり、もう一人は車を持っている学生と仲良くなって、我々には挨拶もしなくなった。あとは、若い女性というと学生課の職員だけだった。一度だけ授業料を払う窓口で「お名前は?」と問われて、「名乗るほどの者ではありません。」と答えて、大いに受けたことがあったが、それも一回きりしか使えないジョークだったので、当然ながら何の発展もなかった。`教室の後ろの席に座り、男ばかりの後ろ姿を見ている日々が続いた。高校時代を懐かしく思いだすこともあった。でも、大根荘に帰ると、そんなことも忘れて皆んなと戯れていた。何を語ったかを思い出すことはできない。ただ夜遅くまで語っていた。そして、眠くなると誰の部屋でも寝た。押入や机の下にも寝た。電話の絵です。 ホームシックになると公衆電話から「105番」に電話をかけて、釧路の自宅の電話番号を聞いた。この電話が故郷につながっていると思うだけで嬉しかった。

やがて、70年安保反対の動きが学内に広まってきた。機動隊が導入され、静かだった田舎の大学も騒然となった。大根荘には運動の先頭に立つような闘士はいなかった。ただ、学校にも近く、常に住人の友人が数多く出入りしていた大根荘は、隠れ家には適していたようで、公安にマークされた人達もそれに紛れるように何回か我々と寝食をともにした。大家さんは警察から度々、苦言をいただいていたようで、ある日、大根荘を電機メーカーの社員寮として売り渡すという宣言をした。入居者は突然の言い渡しに反発したが、転居の条件として示された破格の「払戻金」にすぐ納得してしまった。それは、都内に部屋を借りて、テレビや冷蔵庫を揃えてもまだお釣りが来る金額だった。結局、大根荘解散にあたって一堂に会することもなく、皆んな各々がきめた新しい住居に引っ越していった。

ラジオの絵です。 今も夏になると、大根荘の窓から眺めた夜の田圃風景を思い出す。丹沢の山の上にある月が水面を照らし、無数の蛙の鳴声が響いた。それは、自分が育った釧路にはない光景だった。涼しい所で育った自分にとって、神奈川での初めての夏の暑さは、想像以上に厳しく、深夜になっても凌げるものではなかった。眠れぬ夜は、開け放した窓の桟に置いたラジオで「オールナイトニッポン」を聴いていた。今、その情景から浮かんでくる音楽は、チャールズ・ブロンソンのCM「マンダム」の曲だ。

今から思うと、大根荘最後の住人は団塊世代+2歳までの者だった。今、51歳〜48歳の人達だ。皆んな元気だろうか。高速道路のレストランでバイトをして、我々後輩にもステーキを食べさせてくれたA先輩は何をしているのだろう。きっと、料理上手なお父さんとして子ども達を喜ばせたことだろう。
「ウッチャン・ナンチャン」を見ると思い出すS先輩とH先輩のコンビは、今でも連絡を取り合っているのだろうか。
S大学教授を父に持つKは、 今も車が好きだろうか。KのベレットGTに定員をオーバーする友人が乗り込んでドライブした城ヶ島のことを思い出す。泥濘にはまったスポーツカーを押してあげたことがあった。雨の中、ずぶぬれになって頑張ったが、助手席の女性は一度たりとも外に出てこなかった。
重役の息子だったSは、希望どおり海外に赴任したのだろうか。通学可能な所に家がありながら、大根荘に住みたいと言い出した不思議な奴だった。心配した母親がよくようすを見に来ていた。今は、その親御さんを安心させることができているのだろうか。

30年ぶりに大根荘を訪ねたが、帰りにはロマンスカーに乗った。行くときは混み合う電車であったから、帰りはゆっくりと車窓の風景を楽しもうと思った。でも、新宿に向かうにつれ、見えるのは線路際まで並ぶ住宅だけになった。30年前、田んぼと工場しかなかった一帯が住宅街に変わっていた。多摩川の鉄橋を渡る時だけが、見覚えのある風景だった。大根駅も今は「東海大学前」と名前を変えていた。大根は「おおね」と読む。大根(だいこん)と関係がある地名なのかは知らない。(1999/12/20)

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