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ソロキャンプ


もし、家族でキャンプに行った時、白髪頭の中年男が独り、古びたテントに出入りをしていたらどう思うか。登山者?でも、山をやる人は早朝から動く。日が昇りきった時刻にテントにいることはない。ホームレス?そう言えば、何の目的もなくぶらぶらしているようすしかない。何れにしても近づかないようにしょう。だから、私(白髪頭の中年男)は、テントの外にジッツオの三脚を置くことにしている。怪しい者ではありません。写真を撮りに来ました。と宣言するためだ。写真をやらない人でも、ジッツオの三脚を見れば、運動会に林立する三脚とは違うことがわかる。写真をやっている人なら、日中はシャッターチャンスが乏しいことを知っている。キャンプがブームになったおかげで、五十男のソロキャンプは気遣いが必要になった。 (02/05/04)



家(うち)


この前、以前住んでいた家の夢を見た。数えてみたら、今まで11回の引越をしている。各々の家を思い出すと、日々の暮らしがよみがえる。そんなにアクセントに富んだ生活をしていたわけではない。記憶は、幼稚園に入る前に遡る。昭和30年頃だ。

父親は炭坑のサラリーマンだった。設立間もない生協に勤めていた。家は炭住と呼ばれる平屋二軒一棟だった。 炭住では、不思議なことにどこの家も玄関を使わなかった。裏口というか勝手口から出入りした。家族も近所の人も、時折訪ねて来る親戚も皆んなそうだった。わが家の玄関は、自転車置き場になっていた。南面には庭があって、縁側は茶の間から奥の間につながる廊下になっていた。奥の間の横には一部屋あって、そこから玄関につながるもう一部屋があった。考えてみると、なかなか広い社宅だった。台所は板の間で、水道の蛇口の下に大きな水がめがあった。

ライスカレーの日は、末っ子の自分が板の間に新聞紙を広げて、カレー粉が板状に固まったブロックを削った。裏口からは外で遊ぶ友達の声が聞こえてきて、早く外に出て一緒に遊びたかった。でも、カレー粉を削るのを疎かにすると、ルーに溶けないまま鍋に残ることになる。もし、それが長兄の口にでも入ったら、何も言わずいきなり拳固が飛んできたから、外は気になるが、手元はしっかりと動かさなければならない。そのカレーライスに肉が入っていると、兄弟揃って大喜びだった。力関係が発生して、肉を巡る争いが起きそうになると母親が均分になるように目を光らせた。普段は、海老、北寄(ほっき貝)、イカ、帆立などの海鮮品が肉の代用だった。今でこそ、シーフードカレーとして市民権を得ているが、当時はなんてったって肉だった。

争いはカレーの肉に限ったことではない。冷や麦に赤い麺があると、その取り合いになった。カステラを切る幅、中華饅頭の微妙な大きさまでが言い争いの元だった。極めつけは、年に数回あった肉鍋だった。鍋が食卓にあがった時の緊張感は今でも忘れない。四人の兄姉、皆んながそうだった。食べ始めは鍋の肉も整然としているが、野菜と混ざるようになってくると、白菜をとるふりをして、肉を包もうとする動きがあるから、鍋から目を離せなかった。概ね、末っ子の自分が割りの悪い結果にって泣き叫ぶことになり、見かねた母や姉が肉を分けてくれることで決着をみた。

縁側には工作の思い出がある。雑誌「ぼくら」の付録の日光写真は、ボロボロになるまで使った。付属品の感光紙がなくなると、写真をやっている近所のおじさんからもらった。絵が描かれた種紙(たねがみ)の代わりに、本当のカメラで撮ったネガを使うと、出来上がりも本物の写真のようになった。これを日当たりのいい縁側で繰り返した。幻灯機も魅力の付録だった。猿飛佐助や孫悟空の絵がフイルムになっていた。縁側の窓に毛布をかけて遮光した。幻灯機の中に電球を入れて、壁に貼り付けた敷布に映し出した。それでも、ちょっとした映画館気分が味わえた。でも、紙製の幻灯機はすぐ壊れた。それを糊で貼り付けるのだが、当時、ヤマト糊はまだ貴重品で子どもの自由にならなかった。その代用はご飯つぶだった。今では思いつかないことだが、それが普通だった。あと、縁側では、糸巻きに割り箸を介した輪ゴムを動力にする車を作って遊んだ。糸巻きの車輪部分に刻みを入れて、効率的に力が伝わるように工夫をした。ゴムの巻き加減も重要なことだった。縁側にはそんな思い出がある。(01/10/20)



Y、おめでとう。

昭和45年3月10日は高校の卒業式でした。
その日の朝、Yが「また、名前を呼ばれた時に、でっかい声で返事をしようや。」と言いました。『また』というのは、中学の卒業式でも同じことをしたからです。卒業証書授与の時、一人一人の名前が読み上げられます。その時、誰よりも大きな声で返事をしたのです。小学一年生が出欠をとる時に張り切って返事をするのと同じでした。体育館にざわめきが起こりました。それを高校の卒業式でもやろうと言うのです。

でも、中学の時とは、周りがちよっと違ってました。前年には安田講堂の攻防があり、学生運動の波は田舎の高校まで及んでいました。べ平連を名乗る者もいました。「造反有理」なる言葉も新聞局が張り出すビラに見られました。卒業式に出席するだけでも日和見のように言われました。その中で無邪気に振る舞うことに躊躇しました。しかし、「だからやるんだよ。」とYが言います。どうしたら良いものか、うやむやなまま体育館に入りました。

名前が呼ばれるのは、Yよりも私が先です。式が始まると、予想どおり、名前を呼ばれても返事をする者は少数でした。女生徒が小さな声で応じる程度です。段々、私の番が近づいてきました。その時は、まだ決心がついていませんでした。私の名前が呼ばれました。腹に力を入れて大きな声で「ハイッ!」と叫びました。一瞬の間があってざわめきがありました。それは、中学の時のような微笑ましく迎え入れてくれた雰囲気とは異なりました。緊張の間です。批判の眼差しが向けられているのか?気になってドキドキしましたが平然を装いました。

名前の読み上げが続きました。YはI組なので最後のクラスです。Yの番がきました。私は身体を後ろによじってYを見ました。「○○□□」と教師がYの名前を読み上げました。Yは腹に息をためるように、上半身をやや前後してから、体育館の屋根を突き上げるように「ハイッ!!」と大声で応えました。「おお〜っ!」というどよめきが起こりました。 それを合図のように式場の雰囲気が和らぎました。私もホッとしました。中学の時も今日もYにはかなわない。そう思いました。

それから2週間余り後、Yと私は特急「おおぞら」と急行寝台「八甲田82号」を乗り継ぎ、上野駅に降りたちました。Yと私は小学校5年生の時の転校生同士でした。 今日はYの誕生日です。50歳を迎えました。(01/04/28)



「北の国から」

「北の国から」は、「・・'89 帰郷」、「・・'92 巣立ち」、「・・'95 秘密」、「・・'98 時代」と来た。 このサイクルだと、「・・'01 ○○」があってもいいはずだ。でも、今年放送されるという話は聞かない。 今頃、五郎さんの石の家は深い雪に被われていることだろう。純と正吉は草太兄ちゃんの牧場を継いだのか。 純とシュウはまだ一緒の生活ができないのか。螢の子どもは、快ちゃんという名前らしい。黒木医師は今何処。 勇次はもう現れることはないのか。雪子おばさんは富良野に止まっているのか。れいちゃんはお母さんになったか。 タマコにつららちゃんは幸せをつかんだか。そして、凉子先生はどうしているのだろう。待っているんだ。 「北の国から」。 (01/02/11)


大晦日

大晦日は雨になった。午後からは風もついた。妻は台所で中島みゆきを聴きながら、それを口ずさみながらお節料理を作っている。帰省した息子は、朝昼兼用の食事を終えて新聞を読んでいる。娘は回転すし店のバイトに行っている。今日は書き入れ時だ。

20世紀が終わる。考えてみるとそのほぼ半分を生きた。でも、参加意識がないのは、世紀というのがあまりにも漠然とした単位であることもあるが、戦争という大きな存在を体験していないことが一番の理由のような気がする。新世紀を迎える元旦の予報は吹雪だ。 (00/12/31)



バイトに明け暮れていた頃

「かぐや姫22年ぶりに再結成」という記事を読んだ。
昭和48年、「かぐや姫」の『神田川』は大ヒットしていた。
世の中はオイルショックで、生活必需品の買いだめ騒動などがあったが、日常の暮らしに不安を感じることはなかった。
その頃、世田谷の上北沢にアパートを借りていた。そして、生活の24時間をバイトにあてるという日々を送っていた。と言っても、生活苦にあったわけではない。自分の居場所が明確でない学校よりも、ポジションがあたえられたバイトに充実感を見いだしていた。そういう時期だった。

初めてのバイトは秋葉原にあるビルのボイラーマン代理だった。
ボイラーマン代理というのは変だが、資格を持ったボイラーマンが近くのビルにいて、自分は留守番のような仕事だった。ボイラーの点火と消化は順番に三つのボタンを押すだけだった。 ただ朝8時から夕方5時までボイラー室にいるだけで良かった。
そこでは、ラジオを聞きながら文庫本を読むという時間を過ごした。
近所の書店の棚一列を占めた山手樹一郎の剣豪小説も読破した。
TBSラジオの愛川欣也と見城美枝子がパーソナリティーをしていた番組の情報ダイヤルは今でも覚えている。「584−2211」、「ご飯よふーふーわんわん」と連呼していた。

その後、湯島にある会社の宿直員のバイトもするようになった。
ボイラーの仕事を5時に終えたら、末広の交差点を左に曲がり蔵前通りにある雑誌取次店に向かった。そこは夜の9時くらいまで残業がある会社で、宿直室で暇にしているならと、雑誌を束にして綴じる仕事を頼まれた。同じ時間帯にビル管理会社から宿直のバイト代をもらい、雑誌取次店からは梱包のバイト代が入った。
そのうちにそこに派遣されていた清掃のおばちゃんが辞めたので、事務室の清掃の仕事も回ってきた。床を掃いて、机上拭きをするだけの時間にして30分もかからない楽な仕事だった。
宿直の仕事は、社員が帰ったあとに一度だけビルを巡回して、後は朝の開錠まで何もなかった。雑誌取次店なので、書店に並ぶ前の雑誌や書籍が読み放題という恵まれた環境だった。
朝、出勤してきた社員に引継をすると、ボイラーの仕事に向かった。
まっすぐ行くには時間があるので、ジャイアンツが勝った翌日は御茶ノ水の駅で報知新聞を買うことを常としていた。この年はジャイアンツV9の年だった。雑誌取次店は清水坂下にあったので、御茶ノ水の駅に向かうには東大生の通学路を逆行することになった。歩道いっぱいに溢れんばかりの東大生が押し寄せて来る中を小さくなってかき分けていると、同じ坂を歩いていても行き先が逆なのだから、これは如何にも自分らしいと思った。

日曜日はボイラーの仕事が休みだったが、バイト先の会社が忙しくなると銀座のビル清掃に駆り出された。床洗いのバイトは昼食付きだったが、銀座4丁目にある中華飯店の中華丼や餃子は200円だった。餃子は二人で一皿だった。仲間と餃子を分け合いながら食べるのは楽しかった。

24時間バイトの生活を1年ほど続けたから金は貯まった。使う暇がないから当然だ。もしあの頃、自分に計画性というものがあったら・・・・と思うことがある。でも、現実はバイト生活を終えた後も自分の性格のままに過ごしたので、貯まったはずの金も思い出としかならなかった。
万世橋の下を流れる神田川は毎日目にしたが、銭湯に行く時の手ぬぐいといえばバイト先の社名入りだったし、その色も赤ではなかった。
歌のような生活とは無縁だった。 (00/06/16)



川辺課長

テレビ朝日系のドラマ「はぐれ刑事純情派」は、安浦刑事が主役だ。
夢に向かって歩んでいた若者が、あまりの道のりに近道をしようとした。事件の状況や聞き込みから、犯人の目星はついた。川辺課長は容疑者連行を指示する。が、安浦刑事は動かない。動機が見えないと考え込む。課長はいらつく。動機などどうでもよい。逮捕してから聞けばよいことだと言い張る。そこに横溝署長が登場する。課長は早急なる犯人逮捕を主張する。しかし、署長は「安さんにも考えがあるのだろうと。」と捜査継続を促す。課長のいらつきは増すが、署長の指示とあってはしかたがない。
安浦刑事が動く。若者に彼を心配する周りの人達の言葉を告げる。
その人達の思いに応えろと訴える。やがて、若者は自ら犯行を認める。安浦刑事は諭す。「努力を重ねた分だけ夢に近づけるのだ。地道な一歩一歩が夢を叶えるのだ。」安浦刑事の言葉に若者は涙する。
川辺課長も安堵する。捜査において、自分の主張が通らなかったことも忘れて、事件が解決したことを心から喜ぶ。
日頃から、部下に報告、連絡、相談の「ほうれんそう」を説くが、口うるさい上司だと思われている川辺課長、捜査終了の打ち上げに大盤振る舞いをしたくてもできない恐妻家の川辺課長、取り越し苦労の心配ばかりする川辺課長、そんな川辺課長を応援している。 (00/06/12)


テントを張ろう

雪が雨に変わった。春が来る。土の匂いがする。じきにテントが張れる。もうすぐと言っても、白金野営場ではまだ3カ月待たなければならない。でも、気持ちではもうすぐだ。芝に大の字になると、身体が吸い込まれるような、時には宙に浮くような感じがする。土からエネルギーが伝わってくる。 日常が静かに離れていく。自分が戻ってくる時、少しの間だけどもう一人の自分が現れる気がする。 (00/03/25)


三万坂の映画館

子どもの頃、炭住(炭坑の職員住宅)に住んでいた。その街の三万坂に映画館があった。人気は「鞍馬天狗」「赤胴鈴之介」それに槍と弓の名人兄弟「高丸、菊丸」だった。炭坑の映画館では、主人公が登場すると客席から一斉に拍手がおこった。大人も子供もスクリーンに向かって拍手した。フイルムは市内の繁華街にある映画館とかけ持ちのもので、上映半ばで掛け替えのフイルムが到着するのを待つこともあった。その時は、場内が明るくなって現実の世界に戻ったが、映画の後半がどうなるのか、各々が展開を予想して大声で話していた。予想が的中した者は、映画が終わると鼻高々であった。時には、実演と呼ばれる歌謡ショーもあった。「大空ひばり御当地初公演」のような看板が立っていた。徳富蘆花の「不如帰」が芝居としてかかったこともある。内容は全く覚えていないが、「とくとみろか」という語呂だけが記憶に残った。そんな映画館も炭住もとっくになくなって、今は造成された土地に整然と住宅が並んでいる。映画館があった坂の下には、書店チェーンの「蔦屋」がある。時々、本を買いに行っては、映画館のことを思い出す。三万坂とは、月給三万円の人達が住む地域の名称であった。そこには大学出の管理職が住んでいたが、昭和30年代前半の三万円はかなりの高給だったと思う。それが実際の額であったかは定かではない。(00/02/02)


皆んなのおかげです。

健さんが「不器用ですから・・」とつぶやけば格好良いが・・・・・。
昨日、車のバッテリーを外して充電器に接続しようとしたが、私の手元に目をやっていた同僚が、おぼつかないようすを見かねたのか、あれこれと全部やってくれた。思いおこせば、子どもの頃から図工、家庭技術科の実技は、みんな友人達がやってくれた。版画、エッチング、ブリキの塵取り、電気スタンド・・・、お世話になりました。暖簾を縫う夏休みの宿題は母親にやってもらった。先生に「誰が縫ったの?」と問われ「母さん」と答えると、正直だと誉められた。同じように本立てを作る宿題は父親に頼んだ。不器用は父譲りのようで、父は大工さんに発注した。立派な「作品」を学校に持っていくと「大切に使いなさい。」と先生に言われた。自分の子ども達は、プラモデルを組み立てたり、動物の絵を描くことも何とか人並みにできる。母親に似てくれてホントに良かった。でも、不器用だからこそ、良い人達に囲まれて生きていることが実感できる。皆んな、いい友達であり、いい同僚だ。 (00/01/29)


北海道開拓

年が明けた8日と15日に、NHK教育テレビで「日本 映像の20世紀〜北海道〜」が放送された。明治、大正、昭和と続いた北海道開拓の歴史を振り返る内容だった。前編では、屯田兵に始まった開拓が、国策となって内地から大勢の人が入植したようすを映し出していた。でも、定住率は2割だったと言う。後編では、戦中・戦後の開拓団のことに触れていた。開高健の「ロビンソンの末裔」には、戦災者集団帰農計画に基づく北海道開拓団について「土地も家もある。作物は無肥で育つ。」という東京都拓殖課の無責任な入植募集要項に誘われた一家が、戦後の北海道で”拝み小屋”と呼ばれる窓もない板を立てかけただけの「建物」に住み、凍死を免れるために文字どおりの死闘を繰り広げるようすが描かれている。あらためて当時の映像を見ると、それが小説の世界だけのものではないことがわかった。テレビを見ながら、苛酷な自然の中にあって、生きる要件としておおらかさが身についていった人達のことを思った。自分もその後裔として、地に足のついた生き方をしなければと思う。(00/01/17)


ある時の倹約、ない時の辛抱

2000年になった。特に変わりはない。
来月、ラグビー日本選手権がある。昨年までは、職場の同僚達と一緒に国立競技場まで観戦に行っていた。目の前を大畑が走って、それを松田がタックルするのを見たら、身体が震える興奮だ。
上京したついでに、丸善、伊東屋などに寄って小物を買って来る。
秋葉原では「若松通商」とか「プラットホーム」、「秩父電器」などのマニアックな店を覗いて来る。宝物がいっぱいある。
銀座の中古カメラ店巡りもする。カメラと車は中古がいい。
でも、これから何年かは行かない。子どもへの仕送りが始まるからだ。
家計の話になると、「お父さんが車に・・・カメラに・・・パソコンに・・・スキーだキャンプだに・・・東京だあに・・・」となる。それには弱い。
「ある時の倹約、ない時の辛抱」でいこう。 辛抱すればいいんだ。
子どもの頃から、美味しいおかずを先に食べてしまって、兄姉達が後から食べるのをじっと見ていたのだから、辛抱は得意なのだ。
家内も「お父さんのおかげで、辛抱は慣れている。」と言う。夫婦の方向性が一つになった。これは良いことかもしれない。(00/01/04)


甦った一日

小室等のベスト版を買った。
「雨が空から降れば」を聴いたのは、東京暮らしを始めた頃だった。
『しょうがない、雨の日はしょうがない』の歌詞が心に浸みた。
「スーパーマーケット」を聴いたのは、東京生活を切り上げる頃だった。皆んな出かけた後のアパートで、曲に合わせて「オー ホーッ! スーパーマーケッツ!」と叫んだ。ライナーノーツを見た。「スーパーマーケット」のタイトルの後に「’75/明日」とあった。75年発売のアルバム「明日」に収録されていたのだ。
思い出した。このレコードを買った日のことを思い出した。
秋葉原の石丸電気でレコードを買って、朝日無線でSONYのラジオ「スカイセンサー」を買ったのだ。合わせて3万円近い出費だったから、自分には凄い買い物だ。「スカイセンサー」は、短波放送を楽しむBCLの代名詞的存在だった。その日は遅くまでヘッドホンでレコードを聴いて、深夜になってからラジオのダイヤルを回した。「日本の皆さんこんばんは・・・」遠く海外からの呼びかけが魅力だった。現実から離れた夢の世界を思い描いていたのかもしれない。望郷の声を聞くことで、自分の気持ちを満たしていたのかもしれない。
レコードは、何度かの引越で見えなくなった。ラジオは10年くらい前に従兄弟にあげた。CDジャケットの小室等は、髭をたくわえた顔で笑っている。「アンデスの声」は今も放送されているのだろうか。(99/7/29)


やっぱし、「おばんでした」だべさ

家の近くに新しいコンビニがオープンした。
スポーツ新聞を買いに行ってみた。店に入ると「いらっしゃいませこんばんは」と声がかかる。「いらっしゃいませ」と「こんばんは」の間(あいだ)に間(ま)がない。その発音(アクセント)も東京のコンビニと同じだ。
近所には昨年オープンした別系列のコンビニもある。
ここのパートの中年女性はコンビニのマニュアルに従わない。
「こんばんは」ではなく、「おばんでした。」と言う。北海道らしい。
「でした。」と過去形で言うところも、正統北海道弁だと思う。
言葉には人間味がでる。冬の日には「寒いっしょ。」と声をかけて来る。外は寒くても、かけてくれる言葉は暖かい。
中高生にも優しいおばちゃんだ。だから、ちょっと遠くてもそのコンビニに行く。北海道だも、やっぱし「おばんでした。」だべさ。(99/7/18)


めざせ!雑草園!?

季節は夏だけど、釧路は7月になった途端に雨の日が多い。
おかげで、花壇の雑草もずいぶんと伸びた。朝の散歩をする人達の視線が気になる。気になるくらいなら雑草を抜けばよいのだが、これがなかなか思いっきりがつかない。きっかけが必要なことでもないが、
長嶋巨人の連勝が止まったらやることにしょう。
破竹の連勝街道が続いたら雑草園にすればいい。(99/7/11)


あいつがやるのがいい

この前、列車で読んだ本によると、職人の世界にも仕事の要領を得ない人がいるそうだ。でも、一生懸命に一つのことに集中してやっていると「それはおまえがやったほうがいい。」ということになるらしい。
それは周りが引き出すものでもあるらしい。
サラリーマンの世界になくて、職人の世界にあるものは、数多くあるだろうけど、人を育てるということもその一つになりつつあるように思った。(99/6/8)


大盤ガラスの向こう

残業の時、息抜きに大盤ガラスの前でシャドーピッチングをした。
と言っても真似事だ。左投げのフォームを模倣してみた。
残業が1週間くらい続いたら、少しはサウスポーに見えるようになった。
ポイントはボールを持った手が、耳の後ろに来たところから腕を振り下ろす動作にある。軸足を支えに背筋と腕の力をバランス良く機能させれば左投手に見えてくる。
今はサイドスローに取り組んでいる。これは思ったよりもむつかしい。
夜の大盤ガラスの向こうには、長嶋巨人に勝利をもたらすサウスポーの自分がいる。(99/5/11)


豊年万作さんはどうしているだろう

銀座を歩いていて、自分が昭和45年に上京した時、西銀座のサテライトスタジオでニッポン放送の今仁哲夫さんを見たことを思い出した。
オールナイトニッポンは高校1年の時に始まった。
当時、北海道では独自の深夜放送をやっていたので、今のようにキー局から中継された電波をクリアに聞くのとは相当違った状況だった。
東京の放送局よりも隣国の放送の方が良く聞こえた。
それでも、お年玉で買ったSONYの登山用ラジオで毎日聞いていた。中でも、今仁哲夫さんの放送の日は欠かさず聞いた。
その常連に豊年万作さんがいた。その頃は常連さんという意識しかなかったけど、この前、銀座を歩いていて急に懐かしくなった。
どうしているのだろう。(99/5/4)


切腹はできないけれど

岩川隆は、長嶋への思いを「キミは長嶋を見たか」に綴っている。
今、テリー伊藤は、「君は長嶋茂雄と死ねるか!」と、そのままのタイトルの 著書で問うている。今季優勝を逃したら切腹すると宣言している。
あまりの悲壮感に戸惑いもあるが、その気持ちは痛いほどわかる。
長嶋は今季 限りという話もある。
腹は切れないけれど、優勝してもしなくても長嶋のいな いプロ野球はもう見ないと思う。だから、秋には長嶋の笑顔が見たい。
ナガシマ〜!!と叫びたい。 (99/5/3)


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